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御文章 三塗の大河

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 1月 8, 2010   | 

御文章の「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には
一つもあいそうことあるべからず。されば死出の山路の末、三塗の大河をば、ただ
一人こそゆきなんずれ」 について、話をしていました。

いよいよ臨終となれば、いままでたよりにしてきた妻子も財産も、名誉も地位も、
すべて我が身からはなれて、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていかねば
ならない、といわれています。

悪ばかり造っていますから、後生は無間地獄へ必ず堕ちる、と説かれています。
これを、蓮如上人は、「後生の一大事」 と、繰り返し、御文章に仰言っています。

この信心を獲得せずば、極楽へは往生せずして、無間地獄へ堕在すべし。
(御文章)

阿鼻地獄へ堕在して、八万劫中大苦悩、ひまなく受ける、と親鸞聖人も仰言って
います。すべての人は、この後生の一大事をもっています。そして、そこへ向かって
突き進んでいるのです。未来が真っ暗ですから、現在も暗い、苦しい人生となる
のです。

仏教は、この後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で
終わります。ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教も親鸞聖人の教え
もまったくわかりません。

親鸞聖人の本当の教えをもっと知りたい方は、次を参照してください。

親鸞会.NET

親鸞会ブログポータル


 

御文章 死出の旅路は丸裸

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 12月 18, 2009   | 

前回からの続きです。
御文章に「まことに死せんときは」 と言われているのは、いよいよ死んでいくときは、ということ。
「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」とは、今までたよりにしてきたすべてのもの、ということです。
私たちは、何かをたよりにし、あて力にしなければ、一日たりとも生きてはゆけません。
夫は妻を、妻は夫をたよりにして生きています。
親は子供を、子供は親を力にして生きています。
金や財産、地位や名誉を力にして生きています。
まだまだ生きておれる、と、健康や命をたよりにしていきています。

「我が身には一つもあい添うことあるべからず」とは、病気のときは妻や子供が介抱してくれれば、
あて力にもなりましょうが、死んでいくときは、どんな愛する家族もついてはきてくれません。
金も財産も、名誉も地位も、すべて置いてゆかねばなりません。紙切れ一枚持ってはゆけません。
この肉体さえも焼いてゆかねばならないのです。

日本の歴史上、もっとも成功したといわれる秀吉も、臨終には、難波のことも夢のまた夢、と、
寂しくこの世を去っています。太閤にまでのぼりつめ、聚楽第をつくり、栄耀栄華を極めたことも、
夢の中の夢のような、はかないものでしかなかった、と告白しています。

まさに、蓮如上人が、「我が身には一つもあいそうことあるべからず」と、御文章に書かれている
通りではありませんか。


 

御文章 まことに死せんときは

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 12月 1, 2009   | 

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う

ことあるべからず」 (御文章 蓮如上人)

まことに死せんときは、とは、いよいよ死んでいくときは、ということです。

生あるものは必ず死に帰す、といわれますように、すべての人間は、必ず

死んでいかねばなりません。死は私たちの100%確実な未来です。

しかも、いつやってくるか、わかりません。老後はだんだんとやってきます。

しかし、死は突然やってきます。

では、いよいよ死なねばならない、となったらどうでしょうか。

かねてたのみおきつる妻子も財宝も、とは、今までたよりにしあて力にしてきた

すべてのもの、ということです。 私たちは、なにかをたよりにし、あて力にしなければ

生きてはいけません。夫は妻を、妻は夫をあて力にして生きています。

親は子供を、子供は親をたよりにしていきています。 金、財産、名誉、地位、

いろいろなものを心の支えにして、生きています。

さて、いよいよ臨終となったら、どうなるのか。御文章の話を続けたいと思います。


 

御文章 信心について

Filed under 未分類   |   Posted 11月 10, 2009   | 

世間一般に言われる信心とは、心で何かを信じることです。

私たちは何かを信じなければ、生きてはゆけません。

夫は妻を、妻は夫を信じて生きています。親は子供を、子供は親を信じて生きています。

金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。

共産主義者は共産主義を信じている人たちです。

神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の

信心です。 何を命として信ずるかは、一人一人異なりましょうが、すべての人は何かの

信心を持って生きているのです。だから、生きるということは、イコール、信ずることだと

いうことです。

ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに苦しみ、悩みます。

病気になって苦しむのは健康に裏切られたからです。子供に老人ホームに入れられて

泣くのは、命と信じて育てた子供に裏切られたからです。 しかも深く信じていればいる

ほど、それらに裏切られたときの悲しみや怒りは大きくなります。

私たちは決して、苦しんだり、悲しんだりするために生まれてきたのではありません。

生きているのでもありません。幸福を求めていきているのです。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ、70年80年信じられるものがあったとしても、最後、私たちは死なねばなりません。

蓮如上人の御文章には、次のように書かれています。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う

ことあるべからず」 (御文章)

では、これはどんな意味なのでしょうか。


 

御文章・聖人一流の章(2)

Filed under 未分類   |   Posted 9月 25, 2009   | 

「聖人一流の御勧化の趣は、信心を以って本とせられ候」 について、話をしていました。

「聖人」とは、親鸞聖人のことでありました。

「聖人一流の御勧化の趣は」とは、親鸞聖人90年のみ教えは、ということです。

「一流」とは、「いちりゅう」と読みます。親鸞聖人の教えのことを、御文章では、よく「一流」

とか「当流」と言われます。極楽へ行けるただ一つの教え、ということです。それに対して、

親鸞聖人の教えで無いものを、「他流」といわれます。「他=地獄」へ流れる(ゆく)、

ということです。

「信心を以って本とせられ候」 とは、どういうことでしょうか。

まず、「信心」 とありますが、ここは注意が必要です。ふつう、「信心」と聞くと、

「イワシの頭も信心から」などの言葉を思い浮かべ、なんでもかんでもその人が尊いと

信じていればそれが信心と思っています。

キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、世界にはいろいろな宗教があります。

また、日本でも、日本神道(いわゆる神信心)、創価学会、天理教、・・・沢山の宗教

があり、それぞれ、信心、信心と言っています。

ところが、親鸞聖人や蓮如上人が仰言る「信心」は、雑多な宗教で言われるところの

「信心」と、字は同じ、読み方も同じですが、中身は、日本とスッポン以上に異なります。

この違いを知らないと、親鸞聖人の教えもまったくわかりませんし、親鸞聖人の教え

しか書かれていない御文章も、まったく読めません。たとえ表面だけ読んでいても、

中身はまるでわからない、ということになってしまいます。

そこで、少し難しい内容になっていきますが、「信心」について、お話していきたい

と思います。

では、まず、世間一般で言われる「信心」からお話します。


 

御文章・聖人一流の章

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 9月 2, 2009   | 

蓮如上人の書かれた御文章は、全部で80通のお手紙から成りますが、もっとも親しまれている御文といえば、「聖人一流の章」と「白骨の章」になるでしょう。今回から、「聖人一流の章」について、少し書いてみたいと思います。

この「聖人一流の章」は、御文章の中でも最も短く、しかも、親鸞聖人90年の教えが、あますところなく書かれています。親鸞聖人の教えのすべては、教行信証六巻に書かれています。その要の部分が、すべて、短い「聖人一流の章」に書かれているのです。

では、最初から、少しずつ、聞かせて頂きましょう。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心を以って本とせられ候」

この「聖人」とは、もちろん親鸞聖人のことです。蓮如上人という方は、一生涯、親鸞聖人の教えしか、伝えられませんでした。ですから、門徒の方に宛てられたお手紙である御文章にも、私事は一切書かれずに、ひたすら、親鸞聖人の教えを記されています。 蓮如上人の私生活はもちろん、蓮如上人の考えや思い、それらを一切書いておられないのです。まさに、親鸞学徒の鑑、ではないでしょうか。

今日の浄土真宗の僧侶、学者の現状はどうでしょうか。寺での説教はほとんどなされず、たまに話をすれば、私事ばかり。学者や小説家が、歎異抄の解説書を出したかと思えば、「私釈 歎異抄」「私と歎異抄」「私の歎異抄」など、独自の解釈や、自分の体験談ばかり。

蓮如上人の御文章の如く教える人が、親鸞学徒であり、真の仏教の先生と言えるでしょう。


 

御文章・白骨の章誕生の話

Filed under 御文章について, 御文章・始まり, 御文章・5帖   |   Posted 7月 6, 2009   | 

浄土真宗親鸞会でよく拝読される御文章。その中でも有名な白骨の章に『阿弥陀仏を深くたのみまいらせて』と書かれています。

阿弥陀仏という仏さまは、お釈迦さまをはじめとした全ての仏の先生の仏です。御文章には「阿弥陀如来は三世十方の諸仏の本師本仏なり」と教えられています。この地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、大宇宙には地球のようなものが無限といっていいほど多くあります。

その数限りない地球のようなものに、仏さまが現れており、これを三世十方の諸仏、といわれているのです。そのお釈迦さまをはじめとした大宇宙の仏方の本師本仏が阿弥陀仏という仏さまなのですが、本師本仏とは、師匠、先生という意味ですから、阿弥陀仏はすべての仏の先生なのです。

阿弥陀仏は、『すべての人を、必ず絶対の幸福に助ける』という、とてつもないお約束をなされています。たとえどんなことが起きても、絶対に崩れることのない幸福を『絶対の幸福』といいます。“すべての人を、あっという間もない一念で、いつ死んでも極楽参り間違いない大満足の身に救う”と、阿弥陀仏は誓っておられるのですね。

世の無常を切々と訴え、“弥陀一仏を信じて、早く、人と生まれし本懐を果たしなさいよ”というのが、この『白骨の御文章』に込められた蓮如上人の御心であるのです。そんな御文章の中でも特に有名な『白骨の章』が書かれた背景には、悲しい出来事があったそうです。その経緯が、『御文来意鈔』に記されています。

上人が75歳の御時、山科本願寺の近くに青木民部という下級武士がいたそうです。17歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具をそろえたそうです。ところが、いよいよ挙式という日に、なんと娘が急病で亡くなってしまい・・・火葬のあと、白骨を納めて帰った民部は、『これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か』と悲嘆に暮れ、51歳で急逝。

そして度重なる無常に、民部の妻も翌日、37歳で愁い死にしてしまいました。その二日後に、山科本願寺の聖地を財施した海老名五郎左衛門の17歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀のあと、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聴き入れられ、かくて御文章の『白骨の御文章』が著されたそうです。


 

御文章の教え・避けられない死

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 6月 28, 2009   | 

私は親鸞会でよく拝読されている御文章について学ぶまでは、御文章に関することだけではなく、浄土真宗のお経(浄土三部経といわれます)について何も知らずに、そもそも浄土真宗とは?くらいの無知さで、自分には全く関係のないことだと思っていました。何ひとつよくわからずに生きてきたわけですが、この御文章を読んでいくうちに親鸞聖人の教えがすごく伝わってきて、生きる目的の大切さは今も昔もなく、全ての人にとって、最も大切なことなんだなと感じました。

そんなきっかけになった白骨の章について紹介しているわけですが、お釈迦様は経典に、『出息入息不待命終(出る息は入る息を待たずして命終わる)』と、説かれています。前にも書いたとおり、ほとんどの人が死とは遠い先のことであって、生と死とは、全く別もののように考えているのです。

ですが、どんな人でも吐いた息が吸えなかったら・・・吸った息が何かの拍子で吐けなかったら・・・その時から後生となってしまうのです。一息一息が、死と触れ合っているということ、生と死がこれほど近いものはないですよね。

「無常の風」とは死のことです。病気になったけど手術して助かった!と言っても、死が少し後れただけで、やがて死ぬ時が必ず来ます。もちろん手術をしたことによって、訪れそうになった死を少しでも先に伸ばせたことはとても幸せなことだと思います。一度は死ぬかもしれないと言われた病気が治ることで、今後『生きる意味』や『生きることの素晴らしさ』を知ることができるので、それはすごく幸せなことなはずです。ですがそれでもいつか命の灯は消えてしまう。それは命ある限り誰にでも待っていること、平等なことなので、決して避けられることではないのです。

日本中の名医や看護師を集めようとも、どんな薬を使おうとも、この無常の風を止めることはできないのが事実なんですよね。テレビなどでも、遺体に向かって身内の人が取りすがる光景が映されることがありますが、『目を開けて』『もう一度笑って』『もう一度何か言って』とどれだけ嘆き悲しんでも、どうしようもない、永遠の別れがやってくるのです。


 

御文章・無常の風

Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖   |   Posted 6月 6, 2009   | 

親鸞会よく拝読されている御文章の中に白骨の章といわれる名文があります。その一節を紹介致しましょう。

既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

一陣の風で消える命の灯・・・
“人は病では死ねない。だが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない”と言われます。

こんな小話があります。

徳川時代に、谷風という有名な関取がいたそうです。ある日、所用があって野原へ差しかかると、向こうから小さな小僧がやってきて、『関取、一番取ろうか』と、途方もないことを申し出たんだそうです。その有名な関取は『何じゃワシを日の下開山と知ってのことか』と聞くと小さな小僧は『知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ』と答え、それに対し『生意気なやつ。さあ、どこからなりとかかってこい』と大声で怒鳴りながら取り組んだ。

ところがこの小さな小僧、なかなかの腕力があったそうです。満身の力を込めたが、ついに谷風が草むらの中に投げられてすごく驚いたそうです。『やあ小僧、しばらく待った。この谷風は天下無敵の日の下開山と、われも人も許したものじゃが、おぬしはワシよりも一倍強い。一体全体、おぬしは何者じゃ。名前を聞かせてくれないか』と聞くと『私は谷風よりも強いわけじゃ。あなたが谷風でも私は無常の風じゃもの』と言ったそうです。

かつてあの名大関といわれた二子山親方も、ガンに倒れ、過日わずか55歳でこの世を去りましたね。鍛え上げた肉体も、無常の風を前にしては何の意味もないのです。一陣の風によって、ろうそくの火がたちまち消えてしまうように、私たちの命の灯もまた、無常の風の前にはひとたまりもありません。

御文章では死のことを『無常の風』といい、私たちに無常という厳粛な真実を教えられ、早く、いつ死がやってきても崩れない絶対の幸福の身になりなさいよ、と教えられているのです。
御文章にはよく信心とありますが、阿弥陀仏にこの世で救われて、絶対の幸福になったことを言われています。信心獲得、信心決定ともいわれますが、意味は同じです。


 

御文章の教え・人の死

Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖   |   Posted 5月 1, 2009   | 

御文章に、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
雨のように堕ちゆく人々・・・

と書いてありますが、人が死にゆくさまは、雨の日に木の枝から雫が滴り落ちるよりも激しいとの仰せだそうです。お釈迦様にある時、お弟子が尋ねました。
『世尊は一切の知人、何事でも苦痛におぼしめすことはないのでしょう』
その時釈尊は、こうおっしゃっています。
『そのとおりだ。しかし、ただ一つ苦痛に思われることがある。刻々と縮まるはかない命を持ち、念々に近づいている後生に驚かず、雨の降るごとく地獄へ堕ちゆく人々のことを思うと、胸が張り裂ける思いがする。私の苦しみはこのことだ』と。

世界の年間死亡数は、六千万とも七千万ともいわれています。今日1日だけで、何十万もの死者が出ているか分かりません。まさに雨が降るがごとくですね。時計の針がカッチンと時を刻む間にバタバタと数人の人が死に、次のカッチンでまた幾人かが死ぬ・・・。そしてそこにいつか必ず自分も入るのです。

されば、朝には紅顔ありて、
夕には白骨となれる身なり。

とありましたが、死というのは突然にやってくるものです。朝、『行って来まーす』と、元気に家を飛び出せるのは、『行って帰って来ます』と言っているからなのですね。『だから、おいしい晩ご飯を用意しといてね』という意味も含まれているのかもしれません。ですが行ったきりでは、帰って来れませんよね・・・。そんなことが、連日連夜、テレビや新聞でどれだけの報道がされていることでしょう。

8月になるたび、回顧される日航機墜落事故。まだ十代である娘2人亡くしたある母親は、事故後も二人のために玄関を開けていると語るのだそうです。『表で自転車がキィーッて止まったら、あ、帰ってきたって』(吉岡忍著『墜落の夏』)

あの夏の日に、出かけて行ったきり、帰ってこないとは誰も夢にも思っていなかったのです。

御文章の中には、こう言った深い意味の言葉がたくさん込められているのですね。