一向専念無量寿仏と御文章
Filed under 未分類 | Posted 1月 4, 2012 |
約2600年前、インドで活躍されたお釈迦様が、80歳で亡くなるまで説かれた教えを
仏教といいます。そのみ教えは、七千余巻の一切経に書き残されています。
その仏教の結論は、
「一向専念 無量寿仏」 です。
釈迦は、この八字を教えるために、仏教を説かれたのです。
「無量寿仏に一向専念せよ」 ということですが、まず、無量寿仏とは、阿弥陀仏の
ことです。大宇宙には数え切れないほどの仏様がおられますが、その本師本仏が
阿弥陀如来です。たくさんの名前をもっておられます。本名は「阿弥陀仏」ですが、
次によく使われるのが、無量寿仏です。
阿弥陀仏一つに向け、阿弥陀仏だけを専ら念じよ、これが仏教の結論ですが、
なぜ、お釈迦様はこんなことを仰言ったのでしょうか。
釈迦の教えをそのまま伝えられた方が、親鸞聖人であり、蓮如上人でありますから、
蓮如上人の書かれた御文章にも、このことしか書かれていません。
親鸞会では、各地の会館で、ご法話がひらかれています。
親鸞聖人の本当の教えを知りたい方は、親鸞会のご縁に参加されてください。
御文章と親鸞学徒
Filed under 未分類 | Posted 10月 16, 2011 |
親鸞聖人のみ教えを、聞き、学び、伝える人を、親鸞学徒と言います。
親鸞学徒は、自分の考え、体験を語りません。
500年前の蓮如上人は、常に、親鸞聖人の教えばかり伝えてゆかれ
ました。 蓮如上人の書かれた御文章には、
「この蓮如は・・・」 の記述はなく、「聖人一流の御勧化の趣は~」
「祖師聖人御相伝一流の肝要は・・・」 と、書かれています。
この本道を進むのが、親鸞会です。
浄土真宗親鸞会は、群賊悪獣悪知識を切り捨てて、ひたすらこの
本道を歩んでいきます。
蓮如上人と御文章と、聴聞に極まる
Filed under 未分類 | Posted 8月 30, 2011 |
阿弥陀仏に救われるには、どうすればよいのか?
後生の一大事解決するには、どうすればよいのか?
人生の目的を達成し、絶対の幸福になる道は?
私たちの最も知りたいことについて、御文章を書かれた
蓮如上人は、
「仏法は聴聞に極まる」
と、明快に答えられています。
「聴」もきく、「聞」もきく、だから、「きく一つ」 とも言われます。
「聴」 というきき方と、
「聞」 というきき方とは、まったく異なります。
どのように違うのでしょうか。
親鸞会では、真剣な聞法が勧められています。
二千畳、その他、全国各地の親鸞会の会館は、私たちが
聴聞して、出世の本懐はたすためのものなのです。
御文章と仏願の生起本末
Filed under 未分類 | Posted 7月 31, 2011 |
私たちが人間に生まれてきたのは、阿弥陀仏の本願に救われて、
絶対の幸福になるためです。 本師本仏の阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず助ける、絶対の幸福に」 という本願を建てて
おられます。本願とは、誓願ともいい、お約束のことです。
しかも、一念(きわめて短い時間)で救う、という本願です。
この一念の救いは、弥陀の本願の特徴の中の特徴です。
救いに3秒かかっては、あと1秒の命しかない人は助かりません。
今死なねばならない、という短い命の人に照準を合わせて、
弥陀は本願を建てておられるのです。
では、そこまで、どのように進ませて頂けばよいのでしょう。
御文章を書かれた蓮如上人は、仏法は聴聞にきわまる、と仰せです。
次回に続けたいと思います。
御文章の内容は、親鸞会で聞くことができます。
御文章には、親鸞聖人の教えがそのままかかれています。
親鸞会で聞かせて頂きましょう。
御文章と念仏
Filed under 未分類 | Posted 6月 28, 2011 |
親鸞聖人の教えといえば、
「念仏さえ称えておれば、死んだら極楽、死んだら仏」
と思っている人がほとんどです。寺でもそのような話が
なされています。
しかし、これはまったく親鸞聖人の教えではありません。
親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は、
「聖人一流の御勧化の趣は、信心を以って本とせられ候」
と、信心一つで助かる教えが、親鸞聖人の教えであると
繰り返し書かれています。
そして、「ただ口に念仏ばかりを称えていても助かり
ませんよ」と、何度も書かれています。
信心正因、称名報恩、
この親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を一貫している
教えこそ、真実の仏教であり、浄土真宗親鸞会でも、
このことばかりが教えられています。
全国各地の親鸞会のご法話に参詣してみてください。
御文章と苦悩の真因
Filed under 未分類 | Posted 6月 1, 2011 |
苦悩の真因は、「無明の闇」と言われる心です。
無明の闇とは、後生暗い心であることをお話しました。
100%確実な未来である後生(死後)が暗い心です。
では、なぜ、後生が暗い心が、苦しみの根元なのか。
未来が暗いと現在が暗い。
100%確実な未来である後生が、あるのか、ないのか、
ハッキリしないということは、お先真っ暗な状態です。
現在安心できるはずがありません。
真っ暗がりの中を、目隠しして走っているようなもので、
不安でかないません。
この無明の闇のことを、疑情とも、雑行雑修自力の心、
とも、二心、とも言われているのです。御文章の中にも
繰り返し出てきますが、みな同じ心です。
御文章の正しい意味を、親鸞会で聞いてください。
親鸞会では、二千畳で、毎月、本当の親鸞聖人の
教えが、とかれています。
御文章と、後生暗い心
Filed under 未分類 | Posted 11月 18, 2010 |
本師本仏の弥陀は、すべての人間の苦しみの根元は、
後生暗い心一つであると、五劫の思惟の結果、見抜かれました。
そして、18番目の本願に、その後生暗い心を必ず晴らして、
大満足の心にしてみせる、と誓われています。
では、後生暗い心とはなにか。
後生とは、来世のことです。
来世と聞くと、ずーっと遠い先のことで、自分とは関係のないことと
思っている人も多いようです。
しかし、何かのことで、吸った息が吐き出せなければ、後生であり、
来世なのです。
今年と来年は、だいぶ差があるように思いますが、12月31日午後11
時59分59秒、そしてその次の1秒で、今年が来年に変わります。
今生と後生、来世とは、吸う息吐く息、ふれあっているのです。
次の瞬間から後生がはじまるかも、しれません。
しかも、100%確実な未来です。100年も生きる人はほとんどいま
せんが、100年といっても、あっという間です。だから、全人類の
100%確実な未来なのです。無関係な人は、一人もいないのです。
これほどの、大事はないのではないでしょうか?
昏々と眠り続ける大衆に、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人方は、
警鐘乱打されているのです。
その死んだ後が、真っ暗闇、暗い心を、後生暗い心といいます。
次回につづけましょう。
親鸞会では、後生暗い心について、教えられています。
そして、その解決の道、弥陀の本願もまた、親鸞会で教えられ
ています。
御文章と教行信証と一念
Filed under 未分類 | Posted 10月 10, 2010 |
「一念とは、信楽開発の時尅の極促をあらわす」 (教行信証)
一念について、親鸞聖人が、教行信証に解説されたお言葉です。
「信楽」とは、「しんらく」とか「しがらき」とは読まず、「しんぎょう」
と読みます。
阿弥陀仏は、18願に、「すべての人を、必ず、信楽の心にしてみせる」
というお約束をされています。ゆえに、弥陀の18願を、至心信楽の願
ともいいます。
「信楽」の「信」とは、「破闇」(はあん)ということです。
弥陀は、「闇を破ってみせる」と、誓われています。
この闇とは、無明の闇のことです。無明の闇とは、明かりが無い、暗い
心のこと。だから、闇、と言われています。何に暗いのか、といいますと、
後生暗い心のことです。
では、後生暗い心、とはなんでしょうか。次回に続けましょう。
親鸞会では、弥陀の本願一つが明らかにされています。
親鸞会で、弥陀の本願を聞きましょう。
一念と御文章
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 9月 10, 2010 |
「一念」 が、わからなければ、親鸞聖人、蓮如上人の教えは、
まったくわからない、と言ってもよいでしょう。
「たのむ一念のところ、肝要なり」
とも、蓮如上人は仰っています。仏教に、「要」(かなめ)と言われる
ところはいくつかありますが、要の中の要、肝要は、たった一つです。
ですから、親鸞聖人の教え、仏教において、「一念」 以上に大事
なことはない、ということです。
釈迦の一切経も、この一念におさまります。
一念をひらかれたのが、一切経です。
親鸞会では、常に、「一念」 があきらかに説かれています。
では、一念とはなんでしょうか。教行信証に親鸞聖人は次のように
おっしゃっています。
「一念とは、信楽開発の時尅の極促をあらわす」
これについて、次回、ご説明しましょう。
親鸞聖人の本当の教えは、今日、親鸞会でしか、聞くことは
できないでしょう。
御文章と一念
Filed under 未分類 | Posted 7月 19, 2010 |
80通の御文章の中に繰り返しでてくるのが、「一念」という言葉です。
この一念を知らなければ、御文章は読めませんし、親鸞聖人の教え
はまったくわかりません。
たとえば、
「一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら
極楽へ往生することさらに疑いなし」 とのお言葉を理解するとき、
「一念の信心」のさだまった人は、みな極楽へ行ける、と仰っている
のですが、その「一念の信心」がわからなければ、なにもわかりません。
たいていは、分からないところはすっとばし、都合のよいところだけを
読みますので、死ねばみんな極楽へ行くんだろう、とたいへんな間違い
をおかしてしまうのです。
死んで極楽往生できるのは、「一念の信心さだまった人は」とハッキリ
おっしゃっているのです。この「一念の信心」一つ、あきらかにされた
のが親鸞聖人であり、親鸞会では、そのお話を聞くことができます。
親鸞会で聞かせていただきましょう。