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御文章と一念

Filed under 未分類   |   Posted 7月 19, 2010   | 

80通の御文章の中に繰り返しでてくるのが、「一念」という言葉です。

この一念を知らなければ、御文章は読めませんし、親鸞聖人の教え

はまったくわかりません。

たとえば、

「一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら

極楽へ往生することさらに疑いなし」 とのお言葉を理解するとき、

「一念の信心」のさだまった人は、みな極楽へ行ける、と仰っている

のですが、その「一念の信心」がわからなければ、なにもわかりません。

たいていは、分からないところはすっとばし、都合のよいところだけを

読みますので、死ねばみんな極楽へ行くんだろう、とたいへんな間違い

をおかしてしまうのです。

死んで極楽往生できるのは、「一念の信心さだまった人は」とハッキリ

おっしゃっているのです。この「一念の信心」一つ、あきらかにされた

のが親鸞聖人であり、親鸞会では、そのお話を聞くことができます。

親鸞会で聞かせていただきましょう。


 

御文章と南無阿弥陀仏とお釈迦様

Filed under 御文章について   |   Posted 6月 18, 2010   | 

『南無阿弥陀仏』の名号について、お話していました。

お釈迦様は、今から約2600年前、インドで活躍されました。

35歳で仏の覚りをひらかれ、80歳でお亡くなりになるまで45年間、

説かれた教えを、今日仏教といい、そのみ教えのすべては七千余巻

の一切経に書き残されています。

この一切経にお釈迦様は何を教えられているのか。

一言でいうと、南無阿弥陀仏の解説書なのです。

南無阿弥陀仏を薬と譬えますと、その効能書きが一切経です。

お釈迦様は、一生涯、南無阿弥陀仏の薬に、どんな効能があるか、

説き続けられましたが、お亡くなりになるときに、「説き尽すことが

できなかった」 と仰言っています。

大変な宝ですから、正信偈には、「功徳の大宝海」とも「本願の大智海」

とも、親鸞聖人はお書きくださっています。蓮如上人の御文章にも、

同様のことが繰り返し教えられています。

親鸞会の二千畳で私たちが聞法する目的も、ひとえに、この大功徳を

阿弥陀如来から頂くためであり、無上甚深の功徳利益の長者にさせて

いただくためです。

ゆえに、一座の聞法をおろそかにすることは、何千万円以上の損を

していることになるのです。 親鸞会で、真剣な聞法を、ともにさせて

いただきましょう。


 

御文章と南無阿弥陀仏

Filed under 未分類   |   Posted 5月 13, 2010   | 

前回の続きです。

「それ南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には

無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」

(御文章)

“『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに

凄い働きがあるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の

名号の中には、私たちを最高無上の幸せにする大変な働きが

あるのだよ。その広くて大きいことは、天の際限のないよう

なものである”

 まず、蓮如上人は、

“『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに

凄い働きがあるとは誰も思えないだろう”

と、私たちの心をズバリ仰っています。

 実際、我々は、『南無阿弥陀仏』の凄さがわからないもの

ですから、見向きもせず、お金、財産、異性、地位、名誉等

には、飛びついていきます。来る日も来る日も、必死に

求めています。

これぞ、まさに、『ネコに小判、ブタに真珠』。

ネコに小判を与えても、ネコはニャンとも言いません。

見向きもせずに、どっかへ行き、魚の頭に飛びついています。

「バカだなぁ、小判をくわえて魚屋へ行き、

“毎日タイの刺身持って来い!”と言えばいいのに・・・」

と、人間は思います。小判に物凄い値があるのに、ネコには

それを知る智恵がないのです。

ブタの鼻先に真珠をぶら下げても、ブタはブー!とも言い

ません。エサの入ったバケツに頭を突っ込んで食べている

だけです。

 ピカソやゴッホの絵では、100億円前後で取引されている

ものもあるようですが、私なんかが見ても、どうしてそんな

値段がつくのか、さっぱりわかりません。それは、私に絵の

値を知る智恵がないからです。

 同じように、『南無阿弥陀仏』に、それほど凄い働きが

あるとは思えないのは、『南無阿弥陀仏』に値がないのでは

なく、「値を知る智恵が、我々にない」からなのです。

 『南無阿弥陀仏』のもの凄い働きを知られた蓮如上人は、

「無上甚深の功徳利益の広大なること、極まりがない」

と言われています。これは無論、蓮如上人の私見や独断で

はなく、釈迦・親鸞聖人のご教導どおり知らされられての

明言です。

親鸞会では、正しい親鸞聖人の教えを聞くことができます。

親鸞会のことをもっとお知りになりたい方は、ホームページを

参照してください。

 

南無阿弥陀仏とはなんですか?(御文章で答える)

Filed under 未分類   |   Posted 4月 17, 2010   | 

先日、ある方から、「南無阿弥陀仏って何ですか?」 と尋ねられました。

浄土真宗の正しい御本尊は『南無阿弥陀仏』の御名号であると、

ハッキリ示されています。 みなさんの家のお仏壇に安置されている

御本尊は、どうでしょうか。

親鸞聖人も蓮如上人も、御名号以外に、御本尊とされたことは、

生涯に一度もありませんでした。 両聖人とも、常に御名号のみを御本尊

として礼拝合掌されていたことは、どの記録にも記されている歴史上の

事実です。お弟子や御門徒の皆さんにも、直筆の御名号を下付され、

礼拝を勧めておられたことは言うまでもありません。

その六字の御名号の、偉大なお力について、蓮如上人は次のように

教えておられます。

「それ南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には

無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」

(御文章)

これは、どのような意味なのか、次回お話したいと思います。

御文章の正しい意味が知りたい方は、親鸞会のご法話に参詣されることを

お勧めします。親鸞会では、親鸞聖人、蓮如上人の教えられたことが

正確に説かれています。


 

御文章と親鸞会

Filed under 未分類   |   Posted 3月 26, 2010   | 

今日、世界の光と言われる親鸞聖人。

その親鸞聖人の教えは、聖人自ら書かれた多くの著作に書き残されて

いますが、親鸞聖人の教えのすべてが書かれているのは教行信証です。

その親鸞聖人の教えを、正確に、もっとも多くの人に伝えられた方で、

蓮如上人以上の方は、今日まであらわれていません。

蓮如上人の著書は少なく、御文章(これは蓮如上人がご門徒にあてて

書かれたお手紙をまとめたもの)と正信偈大意くらいしかありません。

しかしながら、蓮如上人の御文章には、親鸞聖人の教えが正確に

書かれています。

中でも有名なのは、聖人一流の章、でしょう。

短い中に、親鸞聖人の教えの要がすべておさまっています。

蓮如上人は、私事は一切語られず、ひたすら親鸞聖人の教えを

正確に伝えられました。

ですから、親鸞聖人の教えも、蓮如上人の教えも、まったく同じです。

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人、蓮如上人を善知識と仰ぎ、

両上人の教えを、正確にお伝えしています。

親鸞会で本当の親鸞聖人の教えを聞いてください。


 

御文章と、後生の一大事

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 3月 9, 2010   | 

仏教を聞く目的は何か? ずばり、後生の一大事の解決一つです。

ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教は全く分かりませんし、

親鸞聖人の教えも、蓮如上人の御文章も、さっぱりわからなくなります。

では、後生の一大事とは、なにか。

後生とは、一息切れたら後生。死んだ後、というkとです。

私たちの100%確実な未来であり、無関係な人は一人もありません。

その後生に、取り返しのつかない一大事があるぞ、と、お釈迦様を

はじめ、歴代の善知識(正しい仏教を教える先生)は、警鐘乱打なさ

れています。

御文章には、「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、

無間地獄に堕在すべきものなり」

帖外御文には、「後生というは永き世まで地獄におつることなれば、

いかにも急ぎ、後生の一大事を思いとりて~」

と書いておられます。

悪ばかり造っている我々の後生は、まちがいなく無間地獄です。

地獄とは、昔の中国の言葉で、インドの昔の言葉ではナラカ、

今日の日本の言葉では苦界、ということです。

では、無間地獄とはどんな世界なのでしょう。

親鸞会では、後生の一大事とその解決一つを教えられた

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えの通り、伝える集まりです。

今日の浄土真宗は名ばかりで、根本である後生の一大事が

まったく明らかにされていない状態です。後生の一大事を教える

者もいないのですから、当然、解決しようと聞く者もいないのです。

親鸞会で、親鸞聖人の本当の教えを聞きましょう。


 

御文章 後生の一大事

Filed under 未分類   |   Posted 2月 10, 2010   | 

仏教は、後生の一大事にはじまり、後生の一大事の解決で終わります。
ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、
全くわかりません。

「このたび、疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた昿劫を逕歴せん」(教行信証)

「一息つがざれば、千載に永くゆく」

昿劫、多生、億劫、万劫、・・・・・親鸞聖人の書かれたものにしばしばでてきます。
一劫は4億3200万年。
その億倍。これが後生の大問題です。
この世50年、100年のこととは桁が違うのです。

蓮如上人の御文章などにも、繰り返し、後生の一大事が出てきます。

「われらが今度の一大事の後生」

「後生の一大事を心にかけて」

ゆえに、後生の一大事を知らねば、釈迦、親鸞聖人、蓮如上人が生涯教えて
いかれたこともまったくわからないのです。
もちろん、御文章もまったく読めません。

親鸞聖人の本当の教えを知りたい方は、以下をクリックしてください。

親鸞会ポータル
親鸞会


 

御文章 三塗の大河

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 1月 8, 2010   | 

御文章の「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には
一つもあいそうことあるべからず。されば死出の山路の末、三塗の大河をば、ただ
一人こそゆきなんずれ」 について、話をしていました。

いよいよ臨終となれば、いままでたよりにしてきた妻子も財産も、名誉も地位も、
すべて我が身からはなれて、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていかねば
ならない、といわれています。

悪ばかり造っていますから、後生は無間地獄へ必ず堕ちる、と説かれています。
これを、蓮如上人は、「後生の一大事」 と、繰り返し、御文章に仰言っています。

この信心を獲得せずば、極楽へは往生せずして、無間地獄へ堕在すべし。
(御文章)

阿鼻地獄へ堕在して、八万劫中大苦悩、ひまなく受ける、と親鸞聖人も仰言って
います。すべての人は、この後生の一大事をもっています。そして、そこへ向かって
突き進んでいるのです。未来が真っ暗ですから、現在も暗い、苦しい人生となる
のです。

仏教は、この後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で
終わります。ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教も親鸞聖人の教え
もまったくわかりません。

親鸞聖人の本当の教えをもっと知りたい方は、次を参照してください。

親鸞会.NET

親鸞会ブログポータル


 

御文章 死出の旅路は丸裸

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 12月 18, 2009   | 

前回からの続きです。
御文章に「まことに死せんときは」 と言われているのは、いよいよ死んでいくときは、ということ。
「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」とは、今までたよりにしてきたすべてのもの、ということです。
私たちは、何かをたよりにし、あて力にしなければ、一日たりとも生きてはゆけません。
夫は妻を、妻は夫をたよりにして生きています。
親は子供を、子供は親を力にして生きています。
金や財産、地位や名誉を力にして生きています。
まだまだ生きておれる、と、健康や命をたよりにしていきています。

「我が身には一つもあい添うことあるべからず」とは、病気のときは妻や子供が介抱してくれれば、
あて力にもなりましょうが、死んでいくときは、どんな愛する家族もついてはきてくれません。
金も財産も、名誉も地位も、すべて置いてゆかねばなりません。紙切れ一枚持ってはゆけません。
この肉体さえも焼いてゆかねばならないのです。

日本の歴史上、もっとも成功したといわれる秀吉も、臨終には、難波のことも夢のまた夢、と、
寂しくこの世を去っています。太閤にまでのぼりつめ、聚楽第をつくり、栄耀栄華を極めたことも、
夢の中の夢のような、はかないものでしかなかった、と告白しています。

まさに、蓮如上人が、「我が身には一つもあいそうことあるべからず」と、御文章に書かれている
通りではありませんか。


 

御文章 まことに死せんときは

Filed under 御文章・教えいろいろ   |   Posted 12月 1, 2009   | 

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う

ことあるべからず」 (御文章 蓮如上人)

まことに死せんときは、とは、いよいよ死んでいくときは、ということです。

生あるものは必ず死に帰す、といわれますように、すべての人間は、必ず

死んでいかねばなりません。死は私たちの100%確実な未来です。

しかも、いつやってくるか、わかりません。老後はだんだんとやってきます。

しかし、死は突然やってきます。

では、いよいよ死なねばならない、となったらどうでしょうか。

かねてたのみおきつる妻子も財宝も、とは、今までたよりにしあて力にしてきた

すべてのもの、ということです。 私たちは、なにかをたよりにし、あて力にしなければ

生きてはいけません。夫は妻を、妻は夫をあて力にして生きています。

親は子供を、子供は親をたよりにしていきています。 金、財産、名誉、地位、

いろいろなものを心の支えにして、生きています。

さて、いよいよ臨終となったら、どうなるのか。御文章の話を続けたいと思います。