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御文章と一念
Filed under 未分類 | Posted 7月 19, 2010 | Read More
80通の御文章の中に繰り返しでてくるのが、「一念」という言葉です。
この一念を知らなければ、御文章は読めませんし、親鸞聖人の教え
はまったくわかりません。
たとえば、
「一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら
極楽へ往生することさらに疑いなし」 とのお言葉を理解するとき、
「一念の信心」のさだまった人は、みな極楽へ行ける、と仰っている
のですが、その「一念の信心」がわからなければ、なにもわかりません。
たいていは、分からないところはすっとばし、都合のよいところだけを
読みますので、死ねばみんな極楽へ行くんだろう、とたいへんな間違い
をおかしてしまうのです。
死んで極楽往生できるのは、「一念の信心さだまった人は」とハッキリ
おっしゃっているのです。この「一念の信心」一つ、あきらかにされた
のが親鸞聖人であり、親鸞会では、そのお話を聞くことができます。
親鸞会で聞かせていただきましょう。
御文章と南無阿弥陀仏
Filed under 未分類 | Posted 5月 13, 2010 | Read More
前回の続きです。
「それ南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には
無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」
(御文章)
“『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに
凄い働きがあるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の
名号の中には、私たちを最高無上の幸せにする大変な働きが
あるのだよ。その広くて大きいことは、天の際限のないよう
なものである”
まず、蓮如上人は、
“『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに
凄い働きがあるとは誰も思えないだろう”
と、私たちの心をズバリ仰っています。
実際、我々は、『南無阿弥陀仏』の凄さがわからないもの
ですから、見向きもせず、お金、財産、異性、地位、名誉等
には、飛びついていきます。来る日も来る日も、必死に
求めています。
これぞ、まさに、『ネコに小判、ブタに真珠』。
ネコに小判を与えても、ネコはニャンとも言いません。
見向きもせずに、どっかへ行き、魚の頭に飛びついています。
「バカだなぁ、小判をくわえて魚屋へ行き、
“毎日タイの刺身持って来い!”と言えばいいのに・・・」
と、人間は思います。小判に物凄い値があるのに、ネコには
それを知る智恵がないのです。
ブタの鼻先に真珠をぶら下げても、ブタはブー!とも言い
ません。エサの入ったバケツに頭を突っ込んで食べている
だけです。
ピカソやゴッホの絵では、100億円前後で取引されている
ものもあるようですが、私なんかが見ても、どうしてそんな
値段がつくのか、さっぱりわかりません。それは、私に絵の
値を知る智恵がないからです。
同じように、『南無阿弥陀仏』に、それほど凄い働きが
あるとは思えないのは、『南無阿弥陀仏』に値がないのでは
なく、「値を知る智恵が、我々にない」からなのです。
『南無阿弥陀仏』のもの凄い働きを知られた蓮如上人は、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、極まりがない」
と言われています。これは無論、蓮如上人の私見や独断で
はなく、釈迦・親鸞聖人のご教導どおり知らされられての
明言です。
親鸞会では、正しい親鸞聖人の教えを聞くことができます。
親鸞会のことをもっとお知りになりたい方は、ホームページを
参照してください。
南無阿弥陀仏とはなんですか?(御文章で答える)
Filed under 未分類 | Posted 4月 17, 2010 | Read More
先日、ある方から、「南無阿弥陀仏って何ですか?」 と尋ねられました。
浄土真宗の正しい御本尊は『南無阿弥陀仏』の御名号であると、
ハッキリ示されています。 みなさんの家のお仏壇に安置されている
御本尊は、どうでしょうか。
親鸞聖人も蓮如上人も、御名号以外に、御本尊とされたことは、
生涯に一度もありませんでした。 両聖人とも、常に御名号のみを御本尊
として礼拝合掌されていたことは、どの記録にも記されている歴史上の
事実です。お弟子や御門徒の皆さんにも、直筆の御名号を下付され、
礼拝を勧めておられたことは言うまでもありません。
その六字の御名号の、偉大なお力について、蓮如上人は次のように
教えておられます。
「それ南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には
無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり」
(御文章)
これは、どのような意味なのか、次回お話したいと思います。
御文章の正しい意味が知りたい方は、親鸞会のご法話に参詣されることを
お勧めします。親鸞会では、親鸞聖人、蓮如上人の教えられたことが
正確に説かれています。
御文章と親鸞会
Filed under 未分類 | Posted 3月 26, 2010 | Read More
今日、世界の光と言われる親鸞聖人。
その親鸞聖人の教えは、聖人自ら書かれた多くの著作に書き残されて
いますが、親鸞聖人の教えのすべてが書かれているのは教行信証です。
その親鸞聖人の教えを、正確に、もっとも多くの人に伝えられた方で、
蓮如上人以上の方は、今日まであらわれていません。
蓮如上人の著書は少なく、御文章(これは蓮如上人がご門徒にあてて
書かれたお手紙をまとめたもの)と正信偈大意くらいしかありません。
しかしながら、蓮如上人の御文章には、親鸞聖人の教えが正確に
書かれています。
中でも有名なのは、聖人一流の章、でしょう。
短い中に、親鸞聖人の教えの要がすべておさまっています。
蓮如上人は、私事は一切語られず、ひたすら親鸞聖人の教えを
正確に伝えられました。
ですから、親鸞聖人の教えも、蓮如上人の教えも、まったく同じです。
浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人、蓮如上人を善知識と仰ぎ、
両上人の教えを、正確にお伝えしています。
親鸞会で本当の親鸞聖人の教えを聞いてください。
御文章 後生の一大事
Filed under 未分類 | Posted 2月 10, 2010 | Read More
仏教は、後生の一大事にはじまり、後生の一大事の解決で終わります。
ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、
全くわかりません。
「このたび、疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた昿劫を逕歴せん」(教行信証)
「一息つがざれば、千載に永くゆく」
昿劫、多生、億劫、万劫、・・・・・親鸞聖人の書かれたものにしばしばでてきます。
一劫は4億3200万年。
その億倍。これが後生の大問題です。
この世50年、100年のこととは桁が違うのです。
蓮如上人の御文章などにも、繰り返し、後生の一大事が出てきます。
「われらが今度の一大事の後生」
「後生の一大事を心にかけて」
ゆえに、後生の一大事を知らねば、釈迦、親鸞聖人、蓮如上人が生涯教えて
いかれたこともまったくわからないのです。
もちろん、御文章もまったく読めません。
親鸞聖人の本当の教えを知りたい方は、以下をクリックしてください。
親鸞会ポータル
親鸞会
御文章 信心について
Filed under 未分類 | Posted 11月 10, 2009 | Read More
世間一般に言われる信心とは、心で何かを信じることです。
私たちは何かを信じなければ、生きてはゆけません。
夫は妻を、妻は夫を信じて生きています。親は子供を、子供は親を信じて生きています。
金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。
共産主義者は共産主義を信じている人たちです。
神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の
信心です。 何を命として信ずるかは、一人一人異なりましょうが、すべての人は何かの
信心を持って生きているのです。だから、生きるということは、イコール、信ずることだと
いうことです。
ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに苦しみ、悩みます。
病気になって苦しむのは健康に裏切られたからです。子供に老人ホームに入れられて
泣くのは、命と信じて育てた子供に裏切られたからです。 しかも深く信じていればいる
ほど、それらに裏切られたときの悲しみや怒りは大きくなります。
私たちは決して、苦しんだり、悲しんだりするために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。幸福を求めていきているのです。
では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。
たとえ、70年80年信じられるものがあったとしても、最後、私たちは死なねばなりません。
蓮如上人の御文章には、次のように書かれています。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う
ことあるべからず」 (御文章)
では、これはどんな意味なのでしょうか。
御文章・聖人一流の章(2)
Filed under 未分類 | Posted 9月 25, 2009 | Read More
「聖人一流の御勧化の趣は、信心を以って本とせられ候」 について、話をしていました。
「聖人」とは、親鸞聖人のことでありました。
「聖人一流の御勧化の趣は」とは、親鸞聖人90年のみ教えは、ということです。
「一流」とは、「いちりゅう」と読みます。親鸞聖人の教えのことを、御文章では、よく「一流」
とか「当流」と言われます。極楽へ行けるただ一つの教え、ということです。それに対して、
親鸞聖人の教えで無いものを、「他流」といわれます。「他=地獄」へ流れる(ゆく)、
ということです。
「信心を以って本とせられ候」 とは、どういうことでしょうか。
まず、「信心」 とありますが、ここは注意が必要です。ふつう、「信心」と聞くと、
「イワシの頭も信心から」などの言葉を思い浮かべ、なんでもかんでもその人が尊いと
信じていればそれが信心と思っています。
キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、世界にはいろいろな宗教があります。
また、日本でも、日本神道(いわゆる神信心)、創価学会、天理教、・・・沢山の宗教
があり、それぞれ、信心、信心と言っています。
ところが、親鸞聖人や蓮如上人が仰言る「信心」は、雑多な宗教で言われるところの
「信心」と、字は同じ、読み方も同じですが、中身は、日本とスッポン以上に異なります。
この違いを知らないと、親鸞聖人の教えもまったくわかりませんし、親鸞聖人の教え
しか書かれていない御文章も、まったく読めません。たとえ表面だけ読んでいても、
中身はまるでわからない、ということになってしまいます。
そこで、少し難しい内容になっていきますが、「信心」について、お話していきたい
と思います。
では、まず、世間一般で言われる「信心」からお話します。