御文章・教えいろいろ
御文章と、後生の一大事
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 3月 9, 2010 | Read More
仏教を聞く目的は何か? ずばり、後生の一大事の解決一つです。
ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教は全く分かりませんし、
親鸞聖人の教えも、蓮如上人の御文章も、さっぱりわからなくなります。
では、後生の一大事とは、なにか。
後生とは、一息切れたら後生。死んだ後、というkとです。
私たちの100%確実な未来であり、無関係な人は一人もありません。
その後生に、取り返しのつかない一大事があるぞ、と、お釈迦様を
はじめ、歴代の善知識(正しい仏教を教える先生)は、警鐘乱打なさ
れています。
御文章には、「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
帖外御文には、「後生というは永き世まで地獄におつることなれば、
いかにも急ぎ、後生の一大事を思いとりて~」
と書いておられます。
悪ばかり造っている我々の後生は、まちがいなく無間地獄です。
地獄とは、昔の中国の言葉で、インドの昔の言葉ではナラカ、
今日の日本の言葉では苦界、ということです。
では、無間地獄とはどんな世界なのでしょう。
親鸞会では、後生の一大事とその解決一つを教えられた
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えの通り、伝える集まりです。
今日の浄土真宗は名ばかりで、根本である後生の一大事が
まったく明らかにされていない状態です。後生の一大事を教える
者もいないのですから、当然、解決しようと聞く者もいないのです。
親鸞会で、親鸞聖人の本当の教えを聞きましょう。
御文章 三塗の大河
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 1月 8, 2010 | Read More
御文章の「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には
一つもあいそうことあるべからず。されば死出の山路の末、三塗の大河をば、ただ
一人こそゆきなんずれ」 について、話をしていました。
いよいよ臨終となれば、いままでたよりにしてきた妻子も財産も、名誉も地位も、
すべて我が身からはなれて、たった一人で暗黒の後生へと旅立っていかねば
ならない、といわれています。
悪ばかり造っていますから、後生は無間地獄へ必ず堕ちる、と説かれています。
これを、蓮如上人は、「後生の一大事」 と、繰り返し、御文章に仰言っています。
この信心を獲得せずば、極楽へは往生せずして、無間地獄へ堕在すべし。
(御文章)
阿鼻地獄へ堕在して、八万劫中大苦悩、ひまなく受ける、と親鸞聖人も仰言って
います。すべての人は、この後生の一大事をもっています。そして、そこへ向かって
突き進んでいるのです。未来が真っ暗ですから、現在も暗い、苦しい人生となる
のです。
仏教は、この後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で
終わります。ですから、後生の一大事がわからなければ、仏教も親鸞聖人の教え
もまったくわかりません。
親鸞聖人の本当の教えをもっと知りたい方は、次を参照してください。
親鸞会.NET
親鸞会ブログポータル
御文章 死出の旅路は丸裸
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 12月 18, 2009 | Read More
前回からの続きです。
御文章に「まことに死せんときは」 と言われているのは、いよいよ死んでいくときは、ということ。
「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」とは、今までたよりにしてきたすべてのもの、ということです。
私たちは、何かをたよりにし、あて力にしなければ、一日たりとも生きてはゆけません。
夫は妻を、妻は夫をたよりにして生きています。
親は子供を、子供は親を力にして生きています。
金や財産、地位や名誉を力にして生きています。
まだまだ生きておれる、と、健康や命をたよりにしていきています。
「我が身には一つもあい添うことあるべからず」とは、病気のときは妻や子供が介抱してくれれば、
あて力にもなりましょうが、死んでいくときは、どんな愛する家族もついてはきてくれません。
金も財産も、名誉も地位も、すべて置いてゆかねばなりません。紙切れ一枚持ってはゆけません。
この肉体さえも焼いてゆかねばならないのです。
日本の歴史上、もっとも成功したといわれる秀吉も、臨終には、難波のことも夢のまた夢、と、
寂しくこの世を去っています。太閤にまでのぼりつめ、聚楽第をつくり、栄耀栄華を極めたことも、
夢の中の夢のような、はかないものでしかなかった、と告白しています。
まさに、蓮如上人が、「我が身には一つもあいそうことあるべからず」と、御文章に書かれている
通りではありませんか。
御文章 まことに死せんときは
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 12月 1, 2009 | Read More
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う
ことあるべからず」 (御文章 蓮如上人)
まことに死せんときは、とは、いよいよ死んでいくときは、ということです。
生あるものは必ず死に帰す、といわれますように、すべての人間は、必ず
死んでいかねばなりません。死は私たちの100%確実な未来です。
しかも、いつやってくるか、わかりません。老後はだんだんとやってきます。
しかし、死は突然やってきます。
では、いよいよ死なねばならない、となったらどうでしょうか。
かねてたのみおきつる妻子も財宝も、とは、今までたよりにしあて力にしてきた
すべてのもの、ということです。 私たちは、なにかをたよりにし、あて力にしなければ
生きてはいけません。夫は妻を、妻は夫をあて力にして生きています。
親は子供を、子供は親をたよりにしていきています。 金、財産、名誉、地位、
いろいろなものを心の支えにして、生きています。
さて、いよいよ臨終となったら、どうなるのか。御文章の話を続けたいと思います。
御文章・聖人一流の章
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 9月 2, 2009 | Read More
蓮如上人の書かれた御文章は、全部で80通のお手紙から成りますが、もっとも親しまれている御文といえば、「聖人一流の章」と「白骨の章」になるでしょう。今回から、「聖人一流の章」について、少し書いてみたいと思います。
この「聖人一流の章」は、御文章の中でも最も短く、しかも、親鸞聖人90年の教えが、あますところなく書かれています。親鸞聖人の教えのすべては、教行信証六巻に書かれています。その要の部分が、すべて、短い「聖人一流の章」に書かれているのです。
では、最初から、少しずつ、聞かせて頂きましょう。
「聖人一流の御勧化の趣は、信心を以って本とせられ候」
この「聖人」とは、もちろん親鸞聖人のことです。蓮如上人という方は、一生涯、親鸞聖人の教えしか、伝えられませんでした。ですから、門徒の方に宛てられたお手紙である御文章にも、私事は一切書かれずに、ひたすら、親鸞聖人の教えを記されています。 蓮如上人の私生活はもちろん、蓮如上人の考えや思い、それらを一切書いておられないのです。まさに、親鸞学徒の鑑、ではないでしょうか。
今日の浄土真宗の僧侶、学者の現状はどうでしょうか。寺での説教はほとんどなされず、たまに話をすれば、私事ばかり。学者や小説家が、歎異抄の解説書を出したかと思えば、「私釈 歎異抄」「私と歎異抄」「私の歎異抄」など、独自の解釈や、自分の体験談ばかり。
蓮如上人の御文章の如く教える人が、親鸞学徒であり、真の仏教の先生と言えるでしょう。
御文章の教え・避けられない死
Filed under 御文章・教えいろいろ | Posted 6月 28, 2009 | Read More
私は親鸞会でよく拝読されている御文章について学ぶまでは、御文章に関することだけではなく、浄土真宗のお経(浄土三部経といわれます)について何も知らずに、そもそも浄土真宗とは?くらいの無知さで、自分には全く関係のないことだと思っていました。何ひとつよくわからずに生きてきたわけですが、この御文章を読んでいくうちに親鸞聖人の教えがすごく伝わってきて、生きる目的の大切さは今も昔もなく、全ての人にとって、最も大切なことなんだなと感じました。
そんなきっかけになった白骨の章について紹介しているわけですが、お釈迦様は経典に、『出息入息不待命終(出る息は入る息を待たずして命終わる)』と、説かれています。前にも書いたとおり、ほとんどの人が死とは遠い先のことであって、生と死とは、全く別もののように考えているのです。
ですが、どんな人でも吐いた息が吸えなかったら・・・吸った息が何かの拍子で吐けなかったら・・・その時から後生となってしまうのです。一息一息が、死と触れ合っているということ、生と死がこれほど近いものはないですよね。
「無常の風」とは死のことです。病気になったけど手術して助かった!と言っても、死が少し後れただけで、やがて死ぬ時が必ず来ます。もちろん手術をしたことによって、訪れそうになった死を少しでも先に伸ばせたことはとても幸せなことだと思います。一度は死ぬかもしれないと言われた病気が治ることで、今後『生きる意味』や『生きることの素晴らしさ』を知ることができるので、それはすごく幸せなことなはずです。ですがそれでもいつか命の灯は消えてしまう。それは命ある限り誰にでも待っていること、平等なことなので、決して避けられることではないのです。
日本中の名医や看護師を集めようとも、どんな薬を使おうとも、この無常の風を止めることはできないのが事実なんですよね。テレビなどでも、遺体に向かって身内の人が取りすがる光景が映されることがありますが、『目を開けて』『もう一度笑って』『もう一度何か言って』とどれだけ嘆き悲しんでも、どうしようもない、永遠の別れがやってくるのです。
御文章・無常の風
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 6月 6, 2009 | Read More
親鸞会よく拝読されている御文章の中に白骨の章といわれる名文があります。その一節を紹介致しましょう。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
一陣の風で消える命の灯・・・
“人は病では死ねない。だが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない”と言われます。
こんな小話があります。
徳川時代に、谷風という有名な関取がいたそうです。ある日、所用があって野原へ差しかかると、向こうから小さな小僧がやってきて、『関取、一番取ろうか』と、途方もないことを申し出たんだそうです。その有名な関取は『何じゃワシを日の下開山と知ってのことか』と聞くと小さな小僧は『知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ』と答え、それに対し『生意気なやつ。さあ、どこからなりとかかってこい』と大声で怒鳴りながら取り組んだ。
ところがこの小さな小僧、なかなかの腕力があったそうです。満身の力を込めたが、ついに谷風が草むらの中に投げられてすごく驚いたそうです。『やあ小僧、しばらく待った。この谷風は天下無敵の日の下開山と、われも人も許したものじゃが、おぬしはワシよりも一倍強い。一体全体、おぬしは何者じゃ。名前を聞かせてくれないか』と聞くと『私は谷風よりも強いわけじゃ。あなたが谷風でも私は無常の風じゃもの』と言ったそうです。
かつてあの名大関といわれた二子山親方も、ガンに倒れ、過日わずか55歳でこの世を去りましたね。鍛え上げた肉体も、無常の風を前にしては何の意味もないのです。一陣の風によって、ろうそくの火がたちまち消えてしまうように、私たちの命の灯もまた、無常の風の前にはひとたまりもありません。
御文章では死のことを『無常の風』といい、私たちに無常という厳粛な真実を教えられ、早く、いつ死がやってきても崩れない絶対の幸福の身になりなさいよ、と教えられているのです。
御文章にはよく信心とありますが、阿弥陀仏にこの世で救われて、絶対の幸福になったことを言われています。信心獲得、信心決定ともいわれますが、意味は同じです。
御文章の教え・人の死
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 5月 1, 2009 | Read More
御文章に、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
雨のように堕ちゆく人々・・・
と書いてありますが、人が死にゆくさまは、雨の日に木の枝から雫が滴り落ちるよりも激しいとの仰せだそうです。お釈迦様にある時、お弟子が尋ねました。
『世尊は一切の知人、何事でも苦痛におぼしめすことはないのでしょう』
その時釈尊は、こうおっしゃっています。
『そのとおりだ。しかし、ただ一つ苦痛に思われることがある。刻々と縮まるはかない命を持ち、念々に近づいている後生に驚かず、雨の降るごとく地獄へ堕ちゆく人々のことを思うと、胸が張り裂ける思いがする。私の苦しみはこのことだ』と。
世界の年間死亡数は、六千万とも七千万ともいわれています。今日1日だけで、何十万もの死者が出ているか分かりません。まさに雨が降るがごとくですね。時計の針がカッチンと時を刻む間にバタバタと数人の人が死に、次のカッチンでまた幾人かが死ぬ・・・。そしてそこにいつか必ず自分も入るのです。
されば、朝には紅顔ありて、
夕には白骨となれる身なり。
とありましたが、死というのは突然にやってくるものです。朝、『行って来まーす』と、元気に家を飛び出せるのは、『行って帰って来ます』と言っているからなのですね。『だから、おいしい晩ご飯を用意しといてね』という意味も含まれているのかもしれません。ですが行ったきりでは、帰って来れませんよね・・・。そんなことが、連日連夜、テレビや新聞でどれだけの報道がされていることでしょう。
8月になるたび、回顧される日航機墜落事故。まだ十代である娘2人亡くしたある母親は、事故後も二人のために玄関を開けていると語るのだそうです。『表で自転車がキィーッて止まったら、あ、帰ってきたって』(吉岡忍著『墜落の夏』)
あの夏の日に、出かけて行ったきり、帰ってこないとは誰も夢にも思っていなかったのです。
御文章の中には、こう言った深い意味の言葉がたくさん込められているのですね。
御文章・親鸞聖人の教え
Filed under 御文章について, 御文章・教えいろいろ | Posted 4月 23, 2009 | Read More
この世のことを火宅無常の世界と言いますが、生きていると何が起きるかわかりません。
例えばあの107人の命を一瞬にして奪ったと有名な尼崎列車脱線事故。その時に1人1人の悲劇が、『毎日新聞』に連載されました。
そのうちの1人である運送会社に勤める34歳の女性。この人は二人の幼い子供を残して、他界してしまった。事故の前日に、新しい自転車を買い、子供を乗せる荷台を取り付けたばかりだったそうです。
そしてもう1人はプロの照明家だった男性も34歳。大阪狭山市に出勤途中だったそう。配線がきれいで作業が早いと、評価されていた仕事はまさにこれからですよね。家庭では4カ月前に男の子が生まれたばかり。死の間際に、彼の目からは、一筋の涙がスーッと流れたといいます。
兵庫県の美容院店長である三十代の男性は、生前は父親に、『近いうちに、独立して自分の店を構えるんだ、父さんと母さんを立派なマンションに住ませてあげるんだ』と、語っていたそうです。
無常の風に誘われた方々の中で、一体誰が、朝顔を洗っている時に、これが今生最後の洗顔になると思っていたでしょうか。私達と同様に、今日死ぬなんて夢にも思っていなかった人ばかりですよね。無常は私たちの思いや都合などと、一切関係がないのです。『“人や先”ではありません。私が先に死んでいかねばならないのですよ』と親鸞聖人が教えておられたことをそのまま蓮如上人は伝えられているのです。それが御文章です。
御文章・私達の本心
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 4月 11, 2009 | Read More
また御文章の5帖目にある白骨についての話になりますが『我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず』と書かれていますが、人間の心の一大事は、『明日死ぬと思えぬ心』にあるのだそうです。
『死』と聞くと、どこか他人のこと、自分とはあまり関係のないように思いがちですが、蓮如上人は、『我や先、人や先』とおっしゃっていますよね。生まれたからには、いつかは死なねばならない、と頭では誰でも分かっていると思います。ですが、『明日、あなたが死ぬと思えますか』と聞かれたらどうでしょうか。まさか、今日、明日には死なないだろうと、勝手に安心しきってはいないでしょうか。
この『今日明日には死なないだろう』と思う心は、『永久に死なないと思う心』なのです。
なぜならそれが翌日になれば、また、『今日明日には死なないだろう」と思ってしまうからですね。そして次の日になれば、また明日も死なないだろうと思うわけですから、結局『永久に死なない』と思っていることになります。それが日々当たり前に生きていると思っているのが私たちの本心なのです。
親しい人が亡くなってしまうと、『私もやがて死んでいかねばならない時があるのだ』と、厳粛な気持ちになりますが、それでも、誰か人が先に死んで、その後に自分が死んでいくと思っているのですね。御文章とはこのように、死に対して私達が勝手に思い込んでいることは、必ずしもそうじゃないのだと教えられているのだと私は感じています。生きることに対する考え方が随分と変わったように感じました。とっても深いです。