御文章・5帖
御文章・白骨の章誕生の話
Filed under 御文章について, 御文章・始まり, 御文章・5帖 | Posted 7月 6, 2009 | Read More
浄土真宗親鸞会でよく拝読される御文章。その中でも有名な白骨の章に『阿弥陀仏を深くたのみまいらせて』と書かれています。
阿弥陀仏という仏さまは、お釈迦さまをはじめとした全ての仏の先生の仏です。御文章には「阿弥陀如来は三世十方の諸仏の本師本仏なり」と教えられています。この地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですが、大宇宙には地球のようなものが無限といっていいほど多くあります。
その数限りない地球のようなものに、仏さまが現れており、これを三世十方の諸仏、といわれているのです。そのお釈迦さまをはじめとした大宇宙の仏方の本師本仏が阿弥陀仏という仏さまなのですが、本師本仏とは、師匠、先生という意味ですから、阿弥陀仏はすべての仏の先生なのです。
阿弥陀仏は、『すべての人を、必ず絶対の幸福に助ける』という、とてつもないお約束をなされています。たとえどんなことが起きても、絶対に崩れることのない幸福を『絶対の幸福』といいます。“すべての人を、あっという間もない一念で、いつ死んでも極楽参り間違いない大満足の身に救う”と、阿弥陀仏は誓っておられるのですね。
世の無常を切々と訴え、“弥陀一仏を信じて、早く、人と生まれし本懐を果たしなさいよ”というのが、この『白骨の御文章』に込められた蓮如上人の御心であるのです。そんな御文章の中でも特に有名な『白骨の章』が書かれた背景には、悲しい出来事があったそうです。その経緯が、『御文来意鈔』に記されています。
上人が75歳の御時、山科本願寺の近くに青木民部という下級武士がいたそうです。17歳の娘と、身分の高い武家との間に縁談が調ったので、民部は、喜んで先祖伝来の武具を売り払い、嫁入り道具をそろえたそうです。ところが、いよいよ挙式という日に、なんと娘が急病で亡くなってしまい・・・火葬のあと、白骨を納めて帰った民部は、『これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か』と悲嘆に暮れ、51歳で急逝。
そして度重なる無常に、民部の妻も翌日、37歳で愁い死にしてしまいました。その二日後に、山科本願寺の聖地を財施した海老名五郎左衛門の17歳になる娘もまた、急病で亡くなりました。葬儀のあと、山科本願寺へ参詣した五郎左衛門は、蓮如上人に、無常についてご勧化をお願いします。すでに青木家の悲劇を聞いておられた上人は、願いを聴き入れられ、かくて御文章の『白骨の御文章』が著されたそうです。
御文章・無常の風
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 6月 6, 2009 | Read More
親鸞会よく拝読されている御文章の中に白骨の章といわれる名文があります。その一節を紹介致しましょう。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
一陣の風で消える命の灯・・・
“人は病では死ねない。だが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない”と言われます。
こんな小話があります。
徳川時代に、谷風という有名な関取がいたそうです。ある日、所用があって野原へ差しかかると、向こうから小さな小僧がやってきて、『関取、一番取ろうか』と、途方もないことを申し出たんだそうです。その有名な関取は『何じゃワシを日の下開山と知ってのことか』と聞くと小さな小僧は『知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ』と答え、それに対し『生意気なやつ。さあ、どこからなりとかかってこい』と大声で怒鳴りながら取り組んだ。
ところがこの小さな小僧、なかなかの腕力があったそうです。満身の力を込めたが、ついに谷風が草むらの中に投げられてすごく驚いたそうです。『やあ小僧、しばらく待った。この谷風は天下無敵の日の下開山と、われも人も許したものじゃが、おぬしはワシよりも一倍強い。一体全体、おぬしは何者じゃ。名前を聞かせてくれないか』と聞くと『私は谷風よりも強いわけじゃ。あなたが谷風でも私は無常の風じゃもの』と言ったそうです。
かつてあの名大関といわれた二子山親方も、ガンに倒れ、過日わずか55歳でこの世を去りましたね。鍛え上げた肉体も、無常の風を前にしては何の意味もないのです。一陣の風によって、ろうそくの火がたちまち消えてしまうように、私たちの命の灯もまた、無常の風の前にはひとたまりもありません。
御文章では死のことを『無常の風』といい、私たちに無常という厳粛な真実を教えられ、早く、いつ死がやってきても崩れない絶対の幸福の身になりなさいよ、と教えられているのです。
御文章にはよく信心とありますが、阿弥陀仏にこの世で救われて、絶対の幸福になったことを言われています。信心獲得、信心決定ともいわれますが、意味は同じです。
御文章の教え・人の死
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 5月 1, 2009 | Read More
御文章に、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
雨のように堕ちゆく人々・・・
と書いてありますが、人が死にゆくさまは、雨の日に木の枝から雫が滴り落ちるよりも激しいとの仰せだそうです。お釈迦様にある時、お弟子が尋ねました。
『世尊は一切の知人、何事でも苦痛におぼしめすことはないのでしょう』
その時釈尊は、こうおっしゃっています。
『そのとおりだ。しかし、ただ一つ苦痛に思われることがある。刻々と縮まるはかない命を持ち、念々に近づいている後生に驚かず、雨の降るごとく地獄へ堕ちゆく人々のことを思うと、胸が張り裂ける思いがする。私の苦しみはこのことだ』と。
世界の年間死亡数は、六千万とも七千万ともいわれています。今日1日だけで、何十万もの死者が出ているか分かりません。まさに雨が降るがごとくですね。時計の針がカッチンと時を刻む間にバタバタと数人の人が死に、次のカッチンでまた幾人かが死ぬ・・・。そしてそこにいつか必ず自分も入るのです。
されば、朝には紅顔ありて、
夕には白骨となれる身なり。
とありましたが、死というのは突然にやってくるものです。朝、『行って来まーす』と、元気に家を飛び出せるのは、『行って帰って来ます』と言っているからなのですね。『だから、おいしい晩ご飯を用意しといてね』という意味も含まれているのかもしれません。ですが行ったきりでは、帰って来れませんよね・・・。そんなことが、連日連夜、テレビや新聞でどれだけの報道がされていることでしょう。
8月になるたび、回顧される日航機墜落事故。まだ十代である娘2人亡くしたある母親は、事故後も二人のために玄関を開けていると語るのだそうです。『表で自転車がキィーッて止まったら、あ、帰ってきたって』(吉岡忍著『墜落の夏』)
あの夏の日に、出かけて行ったきり、帰ってこないとは誰も夢にも思っていなかったのです。
御文章の中には、こう言った深い意味の言葉がたくさん込められているのですね。
御文章・私達の本心
Filed under 御文章・教えいろいろ, 御文章・5帖 | Posted 4月 11, 2009 | Read More
また御文章の5帖目にある白骨についての話になりますが『我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず』と書かれていますが、人間の心の一大事は、『明日死ぬと思えぬ心』にあるのだそうです。
『死』と聞くと、どこか他人のこと、自分とはあまり関係のないように思いがちですが、蓮如上人は、『我や先、人や先』とおっしゃっていますよね。生まれたからには、いつかは死なねばならない、と頭では誰でも分かっていると思います。ですが、『明日、あなたが死ぬと思えますか』と聞かれたらどうでしょうか。まさか、今日、明日には死なないだろうと、勝手に安心しきってはいないでしょうか。
この『今日明日には死なないだろう』と思う心は、『永久に死なないと思う心』なのです。
なぜならそれが翌日になれば、また、『今日明日には死なないだろう」と思ってしまうからですね。そして次の日になれば、また明日も死なないだろうと思うわけですから、結局『永久に死なない』と思っていることになります。それが日々当たり前に生きていると思っているのが私たちの本心なのです。
親しい人が亡くなってしまうと、『私もやがて死んでいかねばならない時があるのだ』と、厳粛な気持ちになりますが、それでも、誰か人が先に死んで、その後に自分が死んでいくと思っているのですね。御文章とはこのように、死に対して私達が勝手に思い込んでいることは、必ずしもそうじゃないのだと教えられているのだと私は感じています。生きることに対する考え方が随分と変わったように感じました。とっても深いです。
御文章・有名な白骨の章について
Filed under 御文章について, 御文章・5帖 | Posted 2月 27, 2009 | Read More
今日は、前回紹介した白骨の章の内容について紹介したいと思います。
激しい無常を目の当たりにした時に、この『白骨の章』が、人々の心をとらえる理由は、単に『名文』である・・・という理由だけではなく、古今変わらぬ人間の真実が説かれているからだといわれます。
御文章・白骨の章に『それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに・・・』と書かれていますが、蓮如上人は、“人間の有り様”を『浮生なる相』と、言われています。人生とは水平線しか見えない大海原を、あてもなくさまよっているようなもの、と仏教では教えられます。大海原の波にのまれると苦しいので、何かにすがらずにはいられません。そこで、近くに浮遊している丸太や板切れを目指します。
人間で例えると『丸太や板切れ』とは、健康のことや夫や妻、子供、お金、地位や名誉のことを指しています。『すがる』とは、それらをあて頼りにすることです。人間とは常に何かをあて力にしなければ生きていけません。
妻なら夫を、夫なら妻を力とし、子供は親をあて力にし、親も子供を頼りにして生きています。その他にも、自分の命はもちろん、体、財産や金銭、家や名誉、社会的地位など、何かを必ずあてにして人は生きているものですよね。
ではなぜ、人は丸太や板切れに例えられるのかというと、丸太や板切れというのはすがった際の一時は、『ヤレヤレ』とほっとすることができますが、やがてはまた波にのまれ、くるっと回って裏切られますよね。いつまでも安心して、満足を与えてくれるわけではありません。それは浮いている状態だからですね。御文章とはそういったことを書かれているのです。
例えば、医者にかかったこともないという健康が自慢であった人が、たまたま勧められて受けた健康診断で末期ガンにかかっていた・・・という話は珍しくありませんよね。これは、自分は健康だと思っている安心(=丸太)に裏切られたのです。
そして夫や妻や子を不慮の事故、または病気によって亡くしてしまい悲しんでいる人は家族という丸太に裏切られたと言うことですね。『裏切られる。』とは言い方が悪いかもしれませんが、人間は幸せに裏切られては、また別の丸太を求めてすがることを繰り返すのです。きっと人生楽しいことがあるはずだと頑張って生きていくのですが、どこまでいっても苦しみ続け、最後、死んでいく・・・。そんな姿を、蓮如上人は、『浮生なる相』とおっしゃっているのですね。
御文章5帖目・『白骨』の章
Filed under 御文章・5帖 | Posted 2月 4, 2009 | Read More
御文章の中で、最も親しまれているものといえば、白骨の章でしょう。屈指の名文として名高い、蓮如上人の白骨の御文章は、浄土真宗の葬式や法事では必ずといっていいほど拝読されるので、聞いたことのある人も多いかと思います。
特に『朝に紅顔(こうがん)ありて、夕には白骨(はっこつ)となれる身なり』という御文章の一節は非常に有名なのです。
白骨の章、全文は次の通りです。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(御文章・五帖目十六通より)
浄土真宗が今日のように、全国各地へ伝えられたのは白骨の章をはじめとした『御文章』によるところが大きいと言われています。