Filed under 未分類 | Posted 11月 10, 2009 |
世間一般に言われる信心とは、心で何かを信じることです。
私たちは何かを信じなければ、生きてはゆけません。
夫は妻を、妻は夫を信じて生きています。親は子供を、子供は親を信じて生きています。
金の信心もあれば、名誉や地位の信心もあります。
共産主義者は共産主義を信じている人たちです。
神や仏を信ずるだけが信心ではありません。何かを信じておれば、それはその人の
信心です。 何を命として信ずるかは、一人一人異なりましょうが、すべての人は何かの
信心を持って生きているのです。だから、生きるということは、イコール、信ずることだと
いうことです。
ところが、私たちは、信じていたものに裏切られたときに苦しみ、悩みます。
病気になって苦しむのは健康に裏切られたからです。子供に老人ホームに入れられて
泣くのは、命と信じて育てた子供に裏切られたからです。 しかも深く信じていればいる
ほど、それらに裏切られたときの悲しみや怒りは大きくなります。
私たちは決して、苦しんだり、悲しんだりするために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。幸福を求めていきているのです。
では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。
たとえ、70年80年信じられるものがあったとしても、最後、私たちは死なねばなりません。
蓮如上人の御文章には、次のように書かれています。
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添う
ことあるべからず」 (御文章)
では、これはどんな意味なのでしょうか。